バーフバリ① ナマステ貴種流離譚

 


※本記事はバーフバリ1,2のネタバレを含んでいます。

 

 

 

 

 

 


『バーフバリ 王の凱旋』見てきました。これはね、すごいですよ。血湧き肉躍る。普段はポップコーンの咀嚼音だけでブチ切れるほど映画鑑賞に静寂を求める僕ですが、今回はマジで立って大声出しそうになりました。インドの映画館では上映中に踊るわ歌うわかけ声上げるわでやりたい放題みたいですね。たしかに歌舞伎でも「中村屋!」みたいに声かけるし、映画鑑賞でもこういうのアリなのかもしれない。シン・ゴジラのイベントにも類似のがあったらしいですしね。

 

それはさておき。映画館行く前に見た『伝説誕生』では「ま〜たインド人が膨大な人員と巨額のカレー・マネーでアホやってるよ。わはは」程度だったんですが、『王の凱旋』見て評価変わりました。「伝説を超えた神話」。これはガチでそうだと思ってて、以下その理由を述べるので、ちょっと読んでみてください。というのも、ヒンドゥーの思想が骨の髄まで染み込んでるから、特に意識しなくても自然にダシが出ちゃって、それで美味しいカレーが出来ました、って映画だと考えているんです。インドカレーがダシ取ってるのかは知りませんが。

 

 

てか王族強すぎね?

 

いやあ、ありますあります、戦闘シーン。この前のアマゾンプライムで見た『ロードオブザリング』を彷彿とさせますね。それで思うんですけど、とにかく王族連中が強すぎる。しかし、パパ・バーフバリといいバラーラデーヴァといい、戦士としてのエリート教育を受けてきたとはいえ、「王族」である以上の、強さの根源とか属性は説明されていません。劇中屈指のヘタレとされていたクンタラ王国のクマラですら、パパ・バーフバリの叱咤でいきなり十数人を一蹴する超人戦士になります。そして我らが主人公バーフバリは、徹頭徹尾一介の村人であったはずです。ちなみにバーフバリが滝登ってからバラーラデーヴァを倒すまで、たぶん一週間前後しか経ってません。てか王族チートじゃね?チートならチートでそのチート性を設定として付け加えるべきだが、それがなされていない。なぜか。

 

 

神としての王族

 

それは、インドにおいて王族は神に等しく、その強さは「自明」であるからに他なりません。自明イコール説明不要であるからには、それはインド人にとって当たり前の、いわば共通意識でなければなりません。僕らの意識では、皇太子と秋篠宮が剣の一振りで百人なぎ倒すとかありえませんよね。でもインド人にとっては、マハラジャが怪力で岩割ったり一人で一個師団倒したりが「あるある」なのです。どういうことでしょう。

 

インドは現在でもヒンドゥーが篤く信仰されており、カーストが根付いています。原則「人間みな平等」みたいな近代国家の基本的人権の発想はないわけですね。こうしたことはもちろん問題で、たとえばインドがレイプ大国として悪名高い一因となっているといわれます。下賎な女には何をしてもいい、みたいなね。一部の悪質なオタクにも同様の言質が見られますが、あれはただのルサンチマンであって、インド人はマジで自然にそう思っているからヤバいのです。

 

さて、先にも述べたとおり王族は神の化身です。インドはインダス文明として古代より栄え、ヒンドゥーカーストはその頃より連綿と続いています。神であるからすなわち王である、という神権政治の発想が、バーフバリを始めとする王族のありえない強さを自明なものとしているわけですね。インドにも『マハーバーラタ』や『リグ・ヴェーダ』を筆頭に様々な神話があり、やっぱり神々が暇を持て余してもろもろ遊んでいるわけですね。

 

そしてむちゃ強い。ギリシャ神話のゼウスとかポセイドンみたいな感じでシヴァとかアースラとか神みたいな強さじゃないですか。我が国の『古事記』にも同様の設定があるんですがね。なのになぜ我らが天皇陛下は勇猛であらせられないのか。取りも直さず、米帝に神位を簒奪されたせいである←尊王攘夷

 

 

ナマステ貴種流離譚ヘラクレス=バーフバリ

 

貴種流離譚」という概念があります。折口信夫が作った民俗学のタームですね。これは「高貴な身分の人間がなんらかの理由で(ほとんど宮廷内の勢力争い)流浪の民となるものの、やがて運命が本来の地位に押し戻していく」みたいな、どっかで必ず見たことある物語のお決まりプロットのことです。提唱した人間こそ折口信夫ですが、神話を類型化した神話学者のキャンベルは、世界中の神話に同様のパターンが見出せるとしています。考えてみれば、そりゃそうですよね。どこの国の昔話にも大体似たような話があります。ヘラクレス三国志劉備オイディプスなどなど。アラサーオタク世代に直撃したルルーシュもそうじゃないでしょうか。

 

バーフバリなんか、もろ「貴種流離譚」ですよね。クーデターで王宮を追われた結果、ごく普通の村人としてバーフバリは育ちました。25才になるまで特に理由もなく延々と滝登りだけしてたり、第二次性徴期が25才と遅すぎたり、またそのきっかけが木の仮面であったりと、かなりの異常性を示す青年ではありましたが。

 

さて、前節で王は神の化身であると述べました。逆にいえば、神でなければ王ではない。この古代の神権の思想が端的に表れているのが、伝説誕生でカーラケーヤを打倒した際に、王を決める裁断を下したシヴァガミのセリフです。

 

「敵を百人倒すのが戦士、一人を救うのが神。バーフバリは民を守ったため、神たる王である」

 

ここにおいてパパ・バーフバリは、バラーラデーヴァより神に近い存在となり、次期国王に指名されるのです。王の凱旋でも、民衆がたびたび神としてバーフバリを崇めていました。神とは誰か。「徳」をたたえた者に他なりません。身体能力や知性以上に、慈悲深さこそが神の絶対条件になるのです。

 

だからこそバーフバリは、あの伝説のパパ・バーフバリの子なので徳を受け継いで(いるという周囲の希望的観測)、見事悲願の王座についたわけです。息子は母の忠告を無視して滝登り続けるわ初恋の相手に勝手にタトゥー入れるわ、とにかくやりたい放題でしたがね。親父がすごいから子もすごい、ってのは前近代的な「王朝」の発想がチラ見できる心憎い点です。色々な意味でインドは近代国家ではないことが節々に読み取れてグッときますね。近代国家じゃなくても別にいいじゃないですか。我が国もインドも。ねえ。

 

こうした中でのバーフバリには、ゼウスの子として生まれたものの、人間界で試練を乗り越えていくハメになるヘラクレスのごとき、神話の原型像を見出せるのではないでしょうか。つまり、古今東西、細かい文化の違いはあれど、好きな話の筋は世界共通だいたい同じってことです。これがいいたかったがために2,500字。もう少し有効な時間の使い方はないんでしょうか。

 

 

 

ともあれ、上記のようにバーフバリにはインド人の深層心理が当たり前に提示されています。我々にとっての違和感も、インド人には普通のことなんですね。こういう風なお国柄を楽しむってのは、邦画と洋画以外の第三国の映画を見る醍醐味だと思います。

 

長くなってしまったのでここで一旦ストップします。次の記事ではこれまた古代からインド人の深層心理に根付いている、おなじみ「カルマ」をキーワードに、このスケール外のスペクタクルを読み込んでいきたいと思います。ナマステ〜🍛🍛🍛