「ねじれた性」 フェティシズム再考

 

 

  巨乳より貧乳の水着グラビアの方がシコれるのはなぜか。

 

 

 あるフォロワーのツイートである。この問題について一週間程度考えを巡らせた結果、巨乳から貧乳というアクターの位相に、ある種の脱色作用が働いていることを見出した。そもそも巨乳とはねじれた概念である。希少であるがゆえに需要があり、マス媒体に頻出する。我々はそれを毎日週刊誌やインターネットで目にする。しかし、それはまた巨乳=祝祭性の飽和状態を引き起こすだろう。毎日がお祭りであったら人はお祭りに価値を感じなくなる。お祭りとは希少であるがゆえに祝祭性を受胎するのである。そこにおける巨乳とは、「希少かつ過剰」としてのグロテスクなキメラ的表象である。そして巨乳は次第に我々をしてシコらせるに足りぬ陳腐な肉袋と化す。

 

 

 ここまで巨乳における希少と過剰の変相を見てきた我々は、貧乳も比例して変相を示していることも発見するだろう。貧乳が水着を着てグラビアを飾るとは何事か?我々はまた、そこに日常へ楔が穿たれたことを感知する。この日常へのヒビとは、他でもない日常性から浸出しているというトートロジカルは特筆に値する。つまり、貧乳という日常における常態が巨乳の席巻するグラビア界に馳せることにより、貧乳まさにそのものが祝祭性を帯びるのである。祝祭性を帯びた乳はどうなるか?言うまでもなくシコられるのである。

 

 

 ここで我々は、フェティシズムという極めて興味深い現象への認識をアップデートすることができるだろう。すなわち、上記のようなパラドキシカルな作用こそがフェティシズムと呼べはしないか。つまり、フェティシズムとは日常性と祝祭性、希少と過剰の複雑にねじれた線上に形成されるのである、あたかもゲノム構造のように。そこには生殖のみで吉としない人類の種としてのオリジナリティが透けて見える。言語という機械に寄生された動物=人類だけが性の変遷を辿ることが可能であり、「ねじれた性」としてのフェティシズムを獲得するのである。

 

 

 我々は一度自らのスケベデータを遡源し、性癖を見つめ直すのもいいだろう。たとえばJKモノが多かったもののある時点からは人妻系が大量に増えている等、顕著な変相を見出したのなら、それが彼の者のフェティシズムの発火を意味するのである。同時にそれは貴重な自己分析にもなるだろう。

 

 

 ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立ち、夜更けにはシコっているのである。